なぜ清洲会議は起きた?
本能寺の変で信長と嫡男・信忠が同時に死んだため、織田家には成人した明確な後継者がいませんでした。
信長の次男・信雄と三男・信孝はいずれも他家を継いでおり、家格の上で並んでいます。誰を立てるかは、そのまま誰が実権を握るかの問題でした。
戦う直前の状況
参加したのは柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人。滝川一益は神流川の敗戦で間に合いませんでした。秀吉は山崎で光秀を討った直後で、実績の面で最も強い立場にいます。
1582年6月|尾張国・清洲城
本能寺の変から約1か月後、織田家の後継者と遺領の配分を決めるために清洲城で開かれた会議です。
柴田勝家は信長の三男・信孝を推し、羽柴秀吉は信忠の子・三法師(当時3歳)を推しました。三法師の家督が決まり、秀吉が発言力を握ります。
合戦ではありませんが、天下の行方を決めた場として合戦と同等の重みを持つ出来事です。
| 戦名 | 清洲会議 |
|---|---|
| 時期 | 1582年6月 |
| 場所 | 尾張国・清洲城 |
| 現在の場所 | 愛知県清須市(清洲城跡・清洲古城跡公園) |
| 両軍 | 三法師を推す側 vs 織田信孝を推す側 |
| 主な武将 | 豊臣秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興 |
| 結果 | 羽柴秀吉の政治的勝利 |
本能寺の変で信長と嫡男・信忠が同時に死んだため、織田家には成人した明確な後継者がいませんでした。
信長の次男・信雄と三男・信孝はいずれも他家を継いでおり、家格の上で並んでいます。誰を立てるかは、そのまま誰が実権を握るかの問題でした。
参加したのは柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人。滝川一益は神流川の敗戦で間に合いませんでした。秀吉は山崎で光秀を討った直後で、実績の面で最も強い立場にいます。
実務能力のある成人が必要という主張だったが、多数を得られなかった。なお近年は、争点は後継者そのものではなく「幼い三法師の名代を誰が務めるか」だったとする見方もある。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1582年6月
豊臣秀吉
中国大返しと山崎の勝利で発言力を確保。三法師擁立で大義名分を握り、会議の主導権を掌握。
柴田勝家
信孝を後継に推すも秀吉に論破され政治的に敗北。以後、反秀吉路線を明確にする。
丹羽長秀
会議では秀吉に同調。織田家中のバランサーとして振る舞った。
池田恒興
秀吉を支持し、会議後も秀吉方として行動。
秀吉は畿内の要地を得て、政権の中枢に近づきます。柴田勝家との対立は解消されず、翌1583年の賤ヶ岳の戦いへ発展しました。
三法師(織田秀信)は成長後に岐阜城主となりますが、関ヶ原で西軍につき、改易されます。
軍事で勝った者が、そのまま政治の場でも主導権を取れるとは限りません。秀吉が会議という場で「筋の通った主張」を用意していたことが、天下人への道を実質的に決めました。
劇的な場面として知られますが、これは後世の軍記物に由来する演出で、同時代史料には見えません。
清洲会議は、1582年6月に尾張国・清洲城で行われた合戦です。豊臣秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興が戦い、結果は羽柴秀吉の政治的勝利でした。
清洲会議は1582年6月に尾張国・清洲城(愛知県清須市(清洲城跡・清洲古城跡公園))で起きました。
羽柴秀吉の政治的勝利
豊臣秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が参戦しています。