なぜ長良川の戦いは起きた?
斎藤道三は主家の土岐氏を追って美濃を掌握しましたが、その経緯から旧臣の反発を抱えていました。
道三が長男の義龍を疎んじ、弟たちを可愛がったことで、義龍は自らの立場に危機感を持ちます。1555年、義龍は弟の孫四郎・喜平次を殺害して挙兵しました。
戦う直前の状況
美濃の国人の多くは義龍側につきました。道三は稲葉山城を出て長良川北岸に布陣しますが、動員できた兵は義龍の半分以下だったとされます。
1556年4月|美濃国・長良川
美濃の斎藤道三と、その子・義龍が長良川で戦い、道三が討たれた親子の戦いです。
国盗りで美濃を握った道三に対し、義龍は家中の支持を集めて挙兵しました。娘婿の織田信長が援軍に向かいましたが間に合わず、道三は戦死します。
信長にとっては後ろ盾を失った出来事であり、同時に「美濃をいずれ取る」という大義名分を得た出来事でもありました。
| 戦名 | 長良川の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1556年4月 |
| 場所 | 美濃国・長良川 |
| 現在の場所 | 岐阜県岐阜市(長良川河畔・道三塚周辺) |
| 両軍 | 斎藤義龍軍 vs 斎藤道三軍 |
| 主な武将 | 斎藤道三、斎藤義龍 |
| 結果 | 斎藤義龍の勝利 |
斎藤道三は主家の土岐氏を追って美濃を掌握しましたが、その経緯から旧臣の反発を抱えていました。
道三が長男の義龍を疎んじ、弟たちを可愛がったことで、義龍は自らの立場に危機感を持ちます。1555年、義龍は弟の孫四郎・喜平次を殺害して挙兵しました。
美濃の国人の多くは義龍側につきました。道三は稲葉山城を出て長良川北岸に布陣しますが、動員できた兵は義龍の半分以下だったとされます。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1556年4月
義龍が美濃を継ぎますが、1561年に35歳で急死します。跡を継いだ龍興は若年で、美濃は動揺しました。
道三が信長に美濃を譲る旨を記した書状を残したと伝わり、信長はこれを美濃侵攻の名分としました。1567年、信長は稲葉山城を落として美濃を手に入れます。
「下剋上で得た国は、下剋上で失われうる」ことを示した戦いです。同時に、信長が美濃へ進出する法的・道義的な足がかりがここで生まれました。
長良川の戦いは、1556年4月に美濃国・長良川で行われた合戦です。斎藤道三・斎藤義龍が戦い、結果は斎藤義龍の勝利でした。
長良川の戦いは1556年4月に美濃国・長良川(岐阜県岐阜市(長良川河畔・道三塚周辺))で起きました。
斎藤義龍の勝利
斎藤道三、斎藤義龍が参戦しています。