長良川の戦いとは?斎藤義龍が斎藤道三を破った戦い

1556年4月|美濃国・長良川

30秒でわかる長良川の戦い

美濃の斎藤道三と、その子・義龍が長良川で戦い、道三が討たれた親子の戦いです。

国盗りで美濃を握った道三に対し、義龍は家中の支持を集めて挙兵しました。娘婿の織田信長が援軍に向かいましたが間に合わず、道三は戦死します。

信長にとっては後ろ盾を失った出来事であり、同時に「美濃をいずれ取る」という大義名分を得た出来事でもありました。

基本情報

戦名長良川の戦い
時期1556年4月
場所美濃国・長良川
現在の場所岐阜県岐阜市(長良川河畔・道三塚周辺)
両軍斎藤義龍軍 vs 斎藤道三軍
主な武将斎藤道三斎藤義龍
結果斎藤義龍の勝利

なぜ長良川の戦いは起きた?

斎藤道三は主家の土岐氏を追って美濃を掌握しましたが、その経緯から旧臣の反発を抱えていました。

道三が長男の義龍を疎んじ、弟たちを可愛がったことで、義龍は自らの立場に危機感を持ちます。1555年、義龍は弟の孫四郎・喜平次を殺害して挙兵しました。

戦う直前の状況

美濃の国人の多くは義龍側につきました。道三は稲葉山城を出て長良川北岸に布陣しますが、動員できた兵は義龍の半分以下だったとされます。

両軍の顔ぶれ

斎藤義龍軍

兵力
約1万7千(諸説あり)

美濃国人衆の支持を得ていた。

斎藤道三軍

兵力
約2千7百(諸説あり)

娘婿の織田信長に援軍を求めたが、到着前に決着した。

兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。

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  • 1556年4月
  • 美濃国・長良川
  • オフライン対応
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戦いの流れ

  1. 義龍の挙兵(1555年) 義龍が弟2人を殺害し、父・道三と決裂する。
  2. 国人衆の動向 美濃の国人の大半が義龍につき、道三は少数で戦うことになった。
  3. 長良川の対陣(1556年4月) 両軍が長良川を挟んで布陣。
  4. 道三の敗死 兵力差のまま押し切られ、道三は小牧源太らに討たれたと伝わる。
  5. 信長の撤退 援軍として木曽川を渡っていた信長は、道三敗死の報を受けて撤退した。

勝敗を分けたポイント

  • 国人の支持を得られなかった道三の国盗りは実力によるもので、旧来の秩序を重んじる国人層の心をつかみきれていなかった。
  • 援軍が間に合う距離になかった信長の到着前に決着したため、織田の兵力は戦局に反映されなかった。
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各武将の戦術

戦いの後どうなった?

義龍が美濃を継ぎますが、1561年に35歳で急死します。跡を継いだ龍興は若年で、美濃は動揺しました。

道三が信長に美濃を譲る旨を記した書状を残したと伝わり、信長はこれを美濃侵攻の名分としました。1567年、信長は稲葉山城を落として美濃を手に入れます。

なぜこの戦いが重要なのか

「下剋上で得た国は、下剋上で失われうる」ことを示した戦いです。同時に、信長が美濃へ進出する法的・道義的な足がかりがここで生まれました。

勝利側

敗北側

参戦武将

前後の出来事

この前に何が起きた? 道三の国盗り 道三が主家の土岐氏を追放し、美濃を実力で掌握していた。
この戦い長良川の戦い
この後どうなった? 桶狭間の戦い(1560年) 道三の死後、娘婿の信長は東の今川を退けてから美濃へ向かい、1567年に稲葉山城を落とす。

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よくある質問

Q. 長良川の戦いとはどんな戦い?

長良川の戦いは、1556年4月に美濃国・長良川で行われた合戦です。斎藤道三・斎藤義龍が戦い、結果は斎藤義龍の勝利でした。

Q. 長良川の戦いはいつ・どこで起きた?

長良川の戦いは1556年4月に美濃国・長良川(岐阜県岐阜市(長良川河畔・道三塚周辺))で起きました。

Q. 長良川の戦いの結果は?

斎藤義龍の勝利

Q. 長良川の戦いの参戦武将は?

斎藤道三、斎藤義龍が参戦しています。

参考資料

  • 史料「信長公記」
  • 史料「美濃国諸旧記」

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