実力を失っても、権威は使えた
応仁の乱以降、将軍は自力で全国の大名を従える力を失い、京都を追われて各地を流浪することもありました。それでも守護の任命や官位の斡旋、大名同士の和睦の仲介といった権威は残り続けます。だからこそ大名は将軍を擁立しようとしました。織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのも、その権威を自らの行動の名分にするためです。
室町幕府の終わり
第13代・足利義輝は自ら剣を執って戦ったと伝わる将軍でしたが、永禄8年(1565年)に三好三人衆らに二条御所を襲われて討たれました。弟の第15代・足利義昭は信長に擁されて将軍となったものの、やがて対立して挙兵し、元亀4年(1573年)に京都を追われます。これをもって室町幕府は事実上終わり、以後の武家の頂点は征夷大将軍としての徳川家康まで空くことになります。
「公方」という呼び方
史料では、将軍は「公方(くぼう)」と呼ばれることがよくあります。また京都を離れた将軍の拠点にちなんで、足利義稙は「流れ公方」、足利義昭は追放後も「鞆公方」と呼ばれました。関東には鎌倉公方(のちの古河公方)という別系統の足利氏もおり、単に「公方」とある史料がどちらを指すのかは、文脈から読み分ける必要があります。

