当時は「忍者」とは呼ばれていなかった
「忍者」は近代以降に広まった呼び方です。当時の史料では、忍び・乱波・素破・草・かまりなど、地域ごとに異なる名で呼ばれていました。伊賀・甲賀が知られるのは、小規模な国人が惣(自治的な連合)を組んで独立性を保ち、傭兵的に各地の大名へ供給される仕組みがあったためとされます。
実際の仕事は情報収集が中心
記録に残る働きは、敵城の構造や兵数を探る、街道の往来を見張る、噂を流して動揺させる、兵糧庫に火を放つといったものです。武田氏の三ツ者、北条氏の風魔のように、大名が抱えた集団も知られています。一方で、創作で描かれる特殊な武具や体術の多くは江戸時代以降に成立した像で、同時代の史料には裏づけがありません。
伊賀・甲賀のその後
天正9年(1581年)、織田信長が伊賀へ大軍を入れた天正伊賀の乱によって、伊賀の自治は崩れました。逃れた者の一部は各地の大名に召し抱えられ、本能寺の変の直後に徳川家康が堺から三河へ戻った「伊賀越え」では、伊賀・甲賀の者が道案内をしたと伝わります。江戸時代に入ると、彼らは幕府の伊賀者・甲賀者として警備や監察の役に就き、戦場の技能は組織の中の職へ変わっていきました。



