大垣城

三成の入城 慶長5年(1600年)

城名大垣城(麋城)
所在地岐阜県大垣市(美濃国)
築城明応9年(1500年)または天文4年(1535年)ごろとされ、諸説あり不詳
主な城主氏家直元、池田恒興、石田三成(西軍本営)、戸田氏
現状天守は昭和20年(1945年)の空襲で焼失。昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで再建

大垣城とは

大垣城は、美濃国(現在の岐阜県大垣市)にあった城である。築城の時期や築城主については明応9年(1500年)に竹腰尚綱が築いたとする説、天文4年(1535年)に宮川安定が築いたとする説など諸説あり、はっきりしない。永禄6年(1563年)に氏家直元が城を拡張し、天正11年(1583年)には池田恒興が本格的な整備を行い、慶長元年(1596年)ごろ伊藤盛景(祐盛)の手で望楼型三重四階の天守が築かれたとされる(四重四階になったのは元和6年〔1620年〕、久松松平氏による改修以降)。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前、伏見城を攻略した石田三成は美濃に入り、8月11日に大垣城へ入城した。以後、小西行長や島津義弘ら西軍諸将も次々と入城し、大垣城は美濃における西軍の前線基地となった。しかし9月14日、東軍が赤坂に着陣したとの報を受けた三成は、西軍主力を率いて大垣城を出陣し、翌15日に関ヶ原で決戦に及んだ。三成らが去ったのちも大垣城には福原長堯らが残って籠城を続けたが、関ヶ原での西軍敗北後まもなく開城した。江戸時代には戸田氏鉄が入封し、以後戸田氏11代の居城として明治維新まで存続した。

明応9年(1500年)/天文4年(1535年)ごろ 竹腰尚綱、あるいは宮川安定が城を築いたとされる(諸説あり)
天正11年(1583年) 池田恒興が城の本格的な整備を行う
慶長元年(1596年)ごろ 伊藤盛景(祐盛)により望楼型三重四階の天守が築かれる
慶長5年(1600年)8月 石田三成が入城し、西軍諸将が集結。美濃における西軍の前線基地となる
慶長5年(1600年)9月 三成ら西軍主力が大垣城を出陣し、関ヶ原の戦いに臨む。城に残った守備隊も戦後まもなく開城
寛永12年(1635年) 戸田氏鉄が入封し、以後戸田氏の居城として明治維新まで続く
昭和20年(1945年) 大垣空襲により国宝であった天守が焼失
昭和34年(1959年) 天守が鉄筋コンクリートで再建される
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ゆかりの武将

大垣城を拠点とした人物

関ヶ原合戦時には石田三成をはじめとする西軍諸将の前線基地となった。

賤ヶ岳の戦い後に城主を務めた人物

1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いののち羽柴秀吉から美濃国と大垣城を与えられ13万石余の城主となったが、在城はわずか1年ほどで、翌1584年に小牧・長久手の戦いに出陣し戦死した。

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よくある質問

Q. 大垣城とは?

美濃国(現在の岐阜県大垣市)にあった城で、関ヶ原の戦いの直前に石田三成ら西軍諸将が入城し、前線基地とした城として知られる。

Q. 大垣城は関ヶ原の戦いでどんな役割を果たした?

石田三成が西軍の本営としてこの城に入り、小西行長や島津義弘らも集結。西軍は大垣城を拠点に東軍と対峙したが、東軍の動きを受けて主力は関ヶ原へ移動し決戦となった。

Q. 大垣城の天守は当時のもの?

江戸期の天守は国宝に指定されていたが昭和20年(1945年)の大垣空襲で焼失し、現在の天守は昭和34年(1959年)に再建されたものである。

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