玄蕃尾城とは
玄蕃尾城は、越前国と近江国の境にある内中尾山(標高約460メートル)の山頂に築かれた山城で、当時は「内中尾山城」とも呼ばれた。誰がいつ築いたかは諸説あり、地元の土豪や朝倉氏によるものとする説、あるいは清須会議後に柴田勝家の居城・北ノ庄城との連絡城として整備されたとする説などがあるが、いずれも定説には至っていない。
天正11年(1583年)、豊臣(羽柴)秀吉と後継争いを繰り広げた柴田勝家は、この城に本陣を構えて賤ヶ岳の戦いに臨んだ。しかし前線に出ていた甥・佐久間盛政が深追いして敗れ、前田利家の戦線離脱も重なって柴田軍は総崩れとなる。勝家は本拠・北ノ庄城に退いて秀吉軍に包囲され、妻お市の方とともに自害した。城名の「玄蕃尾」は、盛政の官途名「玄蕃允」に由来する尾根道「玄蕃尾が根」から付けられたとされる。



