30秒でわかる応仁の乱
将軍の後継者争いと有力守護大名の家督争いが同時に起き、京都で東西両軍が11年にわたって戦い続けた内乱です。
細川勝元を総大将とする東軍と、山名宗全を総大将とする西軍が京都市街を戦場にしたため、内裏や寺社を含む洛中の大半が焼けました。決着はつかないまま両軍が疲弊して終わり、勝者はいません。
この乱で室町幕府が全国の守護を統制する力を失い、各地の実力者が独自に領国を支配しはじめます。戦国時代の起点として語られる出来事です。
なぜ応仁の乱は起きた?
8代将軍・足利義政に長く男子が生まれず、義政は弟の義視を後継に立てました。ところがその直後に義政の子・義尚が生まれ、幕府の中枢が二つの後継候補を抱えることになります。
同じ頃、畠山氏と斯波氏でも家督争いが起きていました。幕府の実力者だった細川勝元と山名宗全が、それぞれ別の当主候補を後押ししたため、複数の相続争いが二大勢力の対立へ束ねられていきます。
戦う直前の状況
1467年(応仁元年)初め、京都には両陣営に味方する守護大名の軍勢が続々と集まっていました。将軍義政は双方に自制を求めましたが、私戦を止める強制力はすでに幕府に残っていませんでした。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
戦いの後どうなった?
京都は主要な寺社・公家邸を含めて焼失し、公家や僧の中には地方の大名を頼って下向する者が相次ぎました。文化が地方へ広がる契機にもなっています。
幕府は守護に対する統制力を失い、守護代や国人が主家を追い落として実権を握る動きが各地で起きます。斎藤道三や北条早雲のような、家柄によらない実力者が台頭する土壌がここで生まれました。
なぜこの戦いが重要なのか
応仁の乱そのものに勝者はいませんが、「幕府の権威が地方を縛れなくなった」という結果は決定的でした。以後およそ100年、各地の実力者が自力で領国を守り広げる時代が続きます。
この前に何が起きた?
嘉吉の乱(1441年)
6代将軍・足利義教が家臣の赤松満祐に殺害され、将軍の権威が大きく揺らいでいた。
この戦い応仁の乱
この後どうなった?
各地で下剋上が始まる
守護が京都に釘付けになっている間に、領国では守護代・国人が実権を握っていく。