なぜ伊賀越えは起きた?
1582年5月、家康は武田征伐の恩賞として駿河を与えられ、その礼のため安土城で信長に謁見しました。その後、堺の見物に向かっています。
戦のための旅ではないため、供は家臣と商人が中心で、軍勢を連れていませんでした。
戦う直前の状況
6月2日、堺で本能寺の変を知ります。京都へ戻る道は明智方が押さえており、当時の伊賀は前年の天正伊賀の乱で織田軍に徹底的に攻められた直後で、織田に連なる者への敵意が残る土地でした。
1582年6月|伊賀国〜三河国
本能寺の変のとき、徳川家康は少数の供だけで堺に滞在していました。畿内は明智方の勢力下にあり、京都へ向かえば捕捉される状況です。
家康は伊賀・甲賀の山道を抜け、伊勢から船で三河へ帰りました。同行者は30〜40人ほどと伝わります。
家康自身が「生涯で最大の危機」と語ったと伝わる脱出行で、この後の徳川と伊賀者の関係の始まりでもあります。
| 戦名 | 伊賀越え |
|---|---|
| 時期 | 1582年6月 |
| 場所 | 伊賀国〜三河国 |
| 現在の場所 | 大阪府堺市〜三重県伊賀市・伊勢〜愛知県岡崎市(伊賀越えルート) |
| 両軍 | 徳川主従 vs 道中の脅威 |
| 主な武将 | 徳川家康、服部半蔵、本多忠勝 |
| 結果 | 家康の三河帰還成功 |
1582年5月、家康は武田征伐の恩賞として駿河を与えられ、その礼のため安土城で信長に謁見しました。その後、堺の見物に向かっています。
戦のための旅ではないため、供は家臣と商人が中心で、軍勢を連れていませんでした。
6月2日、堺で本能寺の変を知ります。京都へ戻る道は明智方が押さえており、当時の伊賀は前年の天正伊賀の乱で織田軍に徹底的に攻められた直後で、織田に連なる者への敵意が残る土地でした。
茶屋四郎次郎が金銭を用意し、道中の地侍に支払って通行の安全を買ったと伝わる。
落武者狩りの地侍・土民。明智方の追手そのものより、こちらが現実の危険だった。
兵力の数字は、軍記物に由来するものを含め史料によって大きく開きがあります。ここでは広く引かれている数値を挙げていますが、実数はこれより少なかったとする研究もあります。
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誰がどこで動き、どの勢力がぶつかったのか。参戦武将をタップしながら、戦いの流れと人物のつながりを追えます。
1582年6月
徳川家康
命がけの逃避行を決断。服部半蔵の導きで伊賀を越え、三河への生還を果たす。
服部半蔵
伊賀の地侍を手配し家康を護衛。忍者の頭領としての真骨頂を発揮した。
本多忠勝
少数の供回りとして家康の護衛に当たり、落ち武者狩りから主君を守り抜いた。
家康は帰国後すぐに出兵を準備しますが、尾張へ着く前に秀吉が光秀を破ってしまいます。弔い合戦の功は得られませんでした。
代わりに家康は空白となった旧武田領へ向かい、天正壬午の乱で甲斐・信濃を手に入れます。結果的にはこちらの方が実利が大きい選択でした。
伊賀越えを助けた者たちは徳川家に召し抱えられ、のちの伊賀同心の起源になったとされます。
ここで家康が死んでいれば、豊臣政権の後に徳川の世が来ることはありませんでした。天下の行方が、軍事力ではなく数十人の逃避行で左右された局面です。
史料により経路の記述が異なり、宇治田原から信楽を経る説、甲賀から伊賀へ抜ける説などがあります。一本に確定していません。
伊賀越えは、1582年6月に伊賀国〜三河国で行われた合戦です。徳川家康・服部半蔵・本多忠勝が戦い、結果は家康の三河帰還成功でした。
伊賀越えは1582年6月に伊賀国〜三河国(大阪府堺市〜三重県伊賀市・伊勢〜愛知県岡崎市(伊賀越えルート))で起きました。
家康の三河帰還成功
徳川家康、服部半蔵、本多忠勝が参戦しています。