一乗谷城

文明3年(1471)ごろ本拠化/天正元年(1573)落城

城名一乗谷城(一乗谷朝倉氏遺跡)
所在地福井県福井市
本拠化文明3年(1471年)ごろ、朝倉孝景(敏景)による
主な城主朝倉義景
現状遺跡全体278haが国の特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」に指定され、発掘調査に基づき武家屋敷や町並みが復原・公開されている。

一乗谷城とは

一乗谷城は越前国守護大名・朝倉氏の本拠地で、文明3年(1471年)ごろ朝倉孝景(敏景)が本拠を移して以来、5代・約100年にわたり朝倉氏の中心地として繁栄した。谷の背後の山上に詰城を構え、谷底には朝倉氏の居館を中心に武家屋敷や町屋が整然と並ぶ、戦国有数の城下町を形成した。5代当主・朝倉義景の時代には将軍・足利義昭も一時この地に身を寄せている。

天正元年(1573年)、織田信長との対立が決定的となり、一乗谷城の戦いで朝倉軍は大敗。義景はわずかな手勢とともに大野へ逃れ自害し、朝倉氏は滅亡した。一乗谷の城下町は信長軍によって焼き払われ、以後は歴史の表舞台から姿を消した。現在は「一乗谷朝倉氏遺跡」として国の特別史跡・特別名勝に指定され、発掘調査に基づいた武家屋敷や町並みの復原が進められている。

1471年ごろ 朝倉孝景(敏景)が一乗谷に本拠を移し、朝倉氏5代の城下町の礎を築く。
1567年(永禄10年) 足利義昭が一乗谷の朝倉義景のもとに身を寄せ、翌1568年7月に離れるまで滞在する。
1573年(天正元年) 一乗谷城の戦いで織田信長軍に大敗。義景は大野へ逃れ自害し、朝倉氏は滅亡。城下町一乗谷は焼き払われる。
1971年 一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定される。
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ゆかりの武将

一乗谷城主・朝倉義景

朝倉氏5代にわたる本拠地で、義景の代に信長軍によって滅ぼされた

よくある質問

Q. 朝倉義景は一乗谷城で亡くなったのですか?

義景は一乗谷城の戦いで信長軍に敗れた後、一乗谷を脱出して大野(賢松寺)へ逃れ、そこで自害した。一乗谷そのものは朝倉氏5代の本拠地として彼の生涯の大半を過ごした場所である。

Q. 一乗谷朝倉氏遺跡では何が見られますか?

発掘調査に基づき復原された武家屋敷や職人の町屋が並ぶ町並み、朝倉義景館跡の唐門、朝倉氏庭園(特別名勝)などを見学できる。

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