諸葛亮とは
蜀漢の丞相にして稀代の天才軍師。劉備の三顧の礼に応じて出廬し、天下三分の計を献策。赤壁の戦いでは呉との同盟を実現し曹操を退けた。劉備没後は幼帝・劉禅を補佐し、五度にわたる北伐を敢行するも、五丈原にて陣没。忠義の象徴として後世に名高い。
- 孔明 -

| 名前 | 諸葛亮 |
|---|---|
| 字 | 孔明 |
| 生年 | 181年 |
| 没年 | 234年 |
| 勢力 | 蜀 |
| 立場 | 軍師 |
蜀漢の丞相にして稀代の天才軍師。劉備の三顧の礼に応じて出廬し、天下三分の計を献策。赤壁の戦いでは呉との同盟を実現し曹操を退けた。劉備没後は幼帝・劉禅を補佐し、五度にわたる北伐を敢行するも、五丈原にて陣没。忠義の象徴として後世に名高い。
琅邪郡陽都県の出身。幼くして両親を失い、叔父に連れられて荊州に移住。襄陽の郊外で晴耕雨読の日々を送り、自らを管仲・楽毅に比した。「臥龍」の異名は水鏡先生・司馬徽が命名したとされる。
207年、劉備の三顧の礼に応じて出廬。「天下三分の計」(隆中対)を献策し、荊州と益州を得て魏・呉と天下を三分する大戦略を示した。赤壁の戦いでは呉への使者として孫権を説得し、孫劉同盟を成立させた。
劉備の死後、蜀漢の丞相として幼帝・劉禅を補佐。「出師の表」を奉じて五度にわたる北伐を敢行したが、234年、五丈原にて陣中で病没。享年54。「鞠躬尽瘁、死而後已(身を粉にして力を尽くし、死して後やむ)」は諸葛亮の生涯そのものを表す。
謹厳実直で公私を峻別した人物。法治を重んじ、蜀漢の社会秩序を維持した。「泣いて馬謖を斬る」は私情と公務の相克の象徴。質素な生活を送り、「成都に桑八百株、痩せた田十五頃あり。子弟の衣食には足る」と自らの財産を報告。清廉潔白な宰相として後世の手本となった。
軍事面での評価は分かれる。正史の著者・陳寿は「蓋し応変の将略は、其の長ずる所に非ざるか」(臨機応変は得意ではなかった)と評している。一方で政治・内政面での評価は極めて高く、「管・蕭の亜匹」(管仲・蕭何に比肩する)と讃えた。北伐の戦略的妥当性も議論が分かれるテーマである。
234年秋、第五次北伐の五丈原の陣中にて病に倒れる。享年54。死の直前、姜維・楊儀・費禕らに退却の手順を指示し、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事通り、死後も蜀軍を整然と退却させた。遺命により定軍山に葬られた。
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