張飛

- 翼徳 -

武将

張飛のAI生成イメージ
AI生成イメージ
名前張飛
翼徳
生年?年
没年221年
勢力
立場武将

張飛とは

蜀漢の五虎大将の一人。劉備・関羽と桃園の誓いを結び、猛将として数々の戦場を駆けた。長坂橋で大喝一声、曹操の大軍を退けた逸話は演義屈指の名場面。入蜀戦では巴郡の厳顔を義で降し、粗暴なだけではない器量を見せた。夷陵出陣の直前、部下に暗殺された。

張飛の生涯

幽州涿郡涿県の出身。家は裕福で、酒や肉を売る商家を営んでいたとされる。黄巾の乱に際して劉備・関羽と義勇軍を結成し、以後、劉備の旗揚げから最期まで行動を共にした。

劉備が曹操に敗れて敗走した長坂の戦い(208年)では、僅か二十騎で殿を務め、長坂橋の上で大喝一声「燕人張飛ここにあり!死を恐れぬ者はかかってこい!」と叫び、曹操の大軍を退けたと演義に記される。

入蜀戦(214年)では巌顔を捕えるも、その忠義に感じて解放し、義で降すという器量を見せた。219年の漢中の戦いでも張郃を大破し、智謀を兼ね備えた猛将ぶりを発揮。

221年、劉備が関羽の仇討ちのため呉征伐を決めると、張飛も閬中から出陣準備を整えた。しかし日頃から部下への扱いが粗暴であったため、出陣直前に配下の張達・范彊に寝込みを襲われて暗殺された。享年は55歳前後と推定される。

人物像

豪胆にして直情径行の猛将。酒を愛し、怒りに任せて部下を鞭打つことが多かった。劉備にも「卿は刑罰を厳しくし過ぎる。それでいて部下を側に置くのは禍を招く」と諫められている(正史)。一方で人物眼にも優れ、厳顔を義で降した逸話や、書画にも才があったという伝承もある。演義では粗暴一辺倒だが、正史では知略を用いた場面も記録されている。

名言

  • 「燕人張飛ここにあり!死を恐れぬ者はかかってこい!」(長坂橋・演義)
  • 「忠臣は死すとも辱めを受けず」(厳顔を讃えた言葉・演義)
  • 「義兄の仇を討たんとする気持ちは兄上と同じ」(夷陵出陣前・演義)

トリビア

  • 演義では大柄で目が大きく髭面の猛者として描かれるが、近年中国で発見された張飛の像は端正な顔立ちで、書家としての側面も注目されている。
  • 娘二人が劉禅の皇后となっており、蜀漢の外戚でもあった。猛将の娘が皇后に選ばれたのは、家柄の良さを示唆する。
  • 長坂橋の逸話で「橋を切り落とした」のは演義の脚色。正史では橋は切られていない。
  • 書画に優れていたという伝承があり、特に草書の名手だったとも伝わる(明代の文献)。

歴史的議論

張飛の字(あざな)は演義では「翼徳」とされるが、正史『三国志』蜀書では「益徳」と記録されている。中国語ではどちらもyìdéと同音であり、演義の成立過程で混同・改変されたと考えられる。本アプリでは一般に広く知られた演義の「翼徳」を採用している。また、長坂橋のエピソードは正史にも記述があるが、具体的な描写(大喝一声など)は演義の脚色が入っている。

最期

221年、夷陵出陣の直前、閬中にて部下の張達・范彊に暗殺された。首は呉の孫権のもとに送られたが、孫権は劉備を刺激したくないためこれを送り返したとも伝わる。日頃の部下への暴虐が命取りとなった悲劇で、劉備は訃報を聞くなり「ああ、飛が死んだか」と嘆いたとされる。

張飛の人物関係

もっと人物関係をたどる

人物・勢力・合戦のつながりを、このサイトで整理して読めます。三国志版アプリは準備中です。戦国時代をもっと深く楽しみたい方は、戦国大図鑑アプリもご覧ください。