孫権

- 仲謀 -

君主

孫権のAI生成イメージ
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名前孫権
仲謀
生年182年
没年252年
勢力
立場君主

孫権とは

呉の初代皇帝。父・孫堅、兄・孫策の遺業を継ぎ、江東を守り抜いた。赤壁の戦いで曹操を退け、夷陵の戦いでは劉備を大破。外交と内政を巧みに操り、呉を三国の一角として長く存続させた知略の君主。

孫権の生涯

揚州呉郡富春県の出身。父・孫堅、兄・孫策の後を継ぎ、18歳で江東の主となった。兄の遺臣である周瑜・張昭らの輔佐を受け、若くして領土を守り抜いた。

208年の赤壁の戦いでは降伏論を退け、周瑜に出撃を命じて曹操の大軍を破った。この決断が天下三分の形勢を確定させた。215年には合肥で張遼に苦しめられるも、荊州問題では巧みな外交で呂蒙に荊州奪還を成功させた。

222年の夷陵の戦いでは陸遜に指揮を任せ、劉備の大軍を撃破。229年に皇帝に即位し呉を建国、建業を都とした。晩年は後継者問題で二宮の変(太子・孫和と魯王・孫覇の争い)を引き起こし、国力を弱めた。252年、71歳で崩御。

人物像

優れた人材登用の才を持ち、周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜と歴代の大都督を適材適所で任用した。曹操に「子を生むなら孫仲謀の如くあるべし」と讃えられた器量の持ち主。一方で晩年は猜疑心が強まり、陸遜を憂死させるなど暗君の面も見せた。外交では魏と蜀の間を巧みに立ち回る現実主義者でもあった。

名言

  • 「子を生むなら当に孫仲謀の如くなるべし」(曹操の評・演義)
  • 「公瑾(周瑜)なくして、孤は帝を称するに至らず」(周瑜死後の追悼)
  • 「孟徳に張遼あらば、孤には甘興覇あり」(甘寧を讃えて)

トリビア

  • 碧眼紫髯(青い目に紫の髭)という異相の持ち主で、孫権の容貌は西域の血を引くとも推測される。
  • 合肥の戦いで張遼に追い詰められた際、愛馬が堀を飛び越えて辛くも脱出した。
  • 三国の君主の中で最も長寿(71歳)で、最も長期間(208年〜252年の約44年間)統治した。
  • 230年に衛温・諸葛直を台湾(夷洲)に派遣し、中国史上初めて台湾に到達した記録がある。

歴史的議論

孫権の評価は前半生と後半生で大きく分かれる。前半生は英主として三国の均衡を保ったが、晩年は二宮の変で多くの重臣を失い、国力衰退を招いた。また荊州問題における関羽殺害の是非も議論が絶えない。外交面では魏と蜀の間を巧みに渡り歩いたが、「信義に欠ける」との批判もある。

最期

252年、建業にて崩御。享年71。後継者に幼い孫亮を立てたが、これが呉の衰退を加速させた。三国の君主の中で最後まで生き残り、魏の曹操・蜀の劉備の死後も30年以上統治を続けたが、晩年の失政が呉の滅亡の遠因となった。

孫権の人物関係

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