司馬懿

- 仲達 -

軍師

司馬懿のAI生成イメージ
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名前司馬懿
仲達
生年179年
没年251年
勢力
立場軍師

司馬懿とは

魏の重臣にして、のちに晋王朝の礎を築いた稀代の謀略家。諸葛亮の北伐に対して持久戦で対抗し、五丈原で孔明の死を見届けた。高平陵の変でクーデターに成功し、曹氏の実権を掌握。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の逸話で知られる。

司馬懿の生涯

司隷河内郡温県の名門・司馬氏の出身。若くして「冢虎」(墓に潜む虎)と異名を取った。曹操に招聘されたが、当初は病と称して仕官を拒んだ。後に曹操の強い要請で仕官し、曹丕の側近として台頭した。

曹丕の時代には対呉戦略の要として重用され、曹丕の死後は受遺の重臣として幼帝・曹叡を支えた。226年以降は西方の防衛を担い、諸葛亮の北伐に対峙。持久戦略で蜀軍を退け、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事を生んだ五丈原の対陣も経験した。

238年には遼東の公孫淵を討伐し、魏の版図を確定させた。249年、曹爽が魏帝と共に高平陵に参詣した隙にクーデターを起こし(高平陵の変)、軍権を掌握。以後、司馬氏が魏の実権を握った。251年に73歳で没。孫の司馬炎が晋を建国し、宣帝と追号された。

人物像

忍耐力と計算高さを兼ね備えた大器晩成型の人物。曹操には「狼顧の相」(振り返る時に体を動かさず首だけ回す)と警戒された。諸葛亮の挑発にも耐え、女物の衣服を送りつけられても動じなかったとされる。演義では姑息な敵役だが、正史では卓越した政治・軍事の才能が記録されている。

名言

  • 「千里を走って人を疲れさせるのは、諸葛亮の得意とするところではない」(北伐での分析)
  • 「死せる孔明、生ける仲達を走らす」(五丈原後の退却・世間の評)
  • 「我、天下に背くとも、天下の人をして我に背かしむるなかれ」(高平陵の変の際)

トリビア

  • 曹操から「狼顧の相」と評され、180度首を回したという逸話が残る。
  • 諸葛亮から女物の衣服(巾幗婦人の服)を送られる屈辱を受けるも、冷静に無視した。
  • 高平陵の変ではクーデター前に病弱を装い、曹爽陣営の油断を誘った。
  • 三国時代を最終的に終わらせた晋王朝の事実上の創始者であり、三国で「勝者」となった人物。

歴史的議論

演義では諸葛亮の引き立て役として描かれがちだが、正史では魏を支えた大功臣であり、北伐を退けた戦略的判断は高く評価されている。一方で高平陵の変は約束を破って曹爽一族を皆殺しにしたとされ、忠臣か簒奪者かの評価は分かれる。宣帝として追号されたものの、後世「司馬懿の心は路人も知る」と野心家の代名詞にもなった。

最期

251年、73歳で病没。遺言で質素な葬儀を命じたとされる。死後、長男・司馬師、次男・司馬昭が魏の実権を握り続け、265年に孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて晋を建国。司馬懿は宣帝と追号された。

司馬懿の人物関係

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