真田幸村の生涯
真田昌幸の次男。本名は信繁だが、講談などで広まった「幸村」の名で親しまれる。大坂冬の陣では真田丸を築き、夏の陣では家康本陣に突撃し、敵味方から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛された。
— 日本一の兵 —
| 名前 | 真田幸村 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 信繁 |
| 異名 | 日本一の兵 |
| 生年 | 1567年 |
| 没年 | 1615年 |
| 出身 | 信濃(長野県) |
| 勢力 | 真田 |
| 役職 | 武将 |
真田昌幸の次男。本名は信繁だが、講談などで広まった「幸村」の名で親しまれる。大坂冬の陣では真田丸を築き、夏の陣では家康本陣に突撃し、敵味方から「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称賛された。
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戦国図鑑アプリを見る真田昌幸の次男。本名は信繁。「幸村」の名は江戸時代の軍記物で広まった通称。1585年に上杉家、1587年に豊臣家の人質となるが、大谷吉継の娘を妻に迎えるなど、豊臣家との絆を深めた。
1600年の関ヶ原の戦いでは父と共に西軍に属し、上田城で徳川秀忠軍を足止め(第二次上田合戦)。敗戦後は高野山・九度山に14年間幽閉される。
1614年、大坂冬の陣で豊臣方として入城。出城「真田丸」を築いて徳川軍を翻弄。1615年の夏の陣では家康本陣に三度突撃し、あと一歩まで迫ったが力尽きた。
父・昌幸ほどの謀略家ではなかったとされるが、義を重んじ、最後まで豊臣家への忠義を貫いた。九度山での14年間の蟄居生活は困窮を極め、兄・信之に借金の手紙を送っている(現存する書状あり)。大坂入城時には赤備えの武者を率い、武田家の伝統を継承した。
大坂夏の陣での最期については、安居神社で討たれたとする説が通説だが、鹿児島に落ち延びたという「真田幸村薩摩落ち伝説」もある。また、「日本一の兵」の評価は島津忠恒の書状に基づくが、リアルタイムの評価というよりは後日談的な性格が強い。
上田城、九度山(蟄居地)、大坂城・真田丸
1615年5月7日、大坂夏の陣にて戦死。家康本陣への突撃で力を使い果たし、安居神社(天王寺区)で休息中に越前松平家の兵に討ち取られたとされる。享年49。
真田幸村には10人の家臣が仕えました。
真田幸村の家臣一覧を見る →真田幸村は信濃(現在の長野県)の出身です。
真田幸村は第二次上田合戦、関ヶ原の戦い、大坂の陣に参戦しています。
真田幸村は「日本一の兵」と呼ばれています。
1615年5月7日、大坂夏の陣にて戦死。家康本陣への突撃で力を使い果たし、安居神社(天王寺区)で休息中に越前松平家の兵に討ち取られたとされる。享年49。
「定めなき浮世にて候えば、一日先は知らざる事に候」(兄への手紙)