稀少

大友宗麟

— 豊後の王 —

大友 大名

名前大友宗麟
本名・幼名義鎮
異名豊後の王
生年1530年
没年1587年
出身豊後(大分県)
勢力大友
役職大名

大友宗麟の生涯

北九州を支配したキリシタン大名。海外貿易を積極的に行い「豊後王」と呼ばれた。耳川の戦いで島津氏に敗れ衰退するが、秀吉に九州征伐を要請した。

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詳細な経歴

豊後国の守護大名・大友義鑑の嫡男。1550年の二階崩れの変で父が暗殺された後、家督を継ぎ、北九州6カ国を支配する大勢力を築いた。

南蛮貿易を積極的に推進し、キリスト教に傾倒。1578年にキリシタンとなり、洗礼名「ドン・フランシスコ」を受ける。ローマ教皇に天正遣欧少年使節を派遣したことでも知られる。

しかし1578年の耳川の戦いで島津軍に大敗し、以後急速に衰退。秀吉の九州征伐で島津から救われたが、所領は大幅に減じられた。1587年に病没。享年58。

性格・人物像

文化と信仰に深い関心を持つ開明的な大名。南蛮文化の受容に積極的で、西洋医学や活版印刷を取り入れた。一方で、キリスト教への傾倒が家臣との軋轢を生み、神社仏閣の破壊を黙認したことが家中の離反を招いた。

名言

  • 「仏の教えとキリストの教えは、源は同じものである」(伝承)

トリビア

  • 天正遣欧少年使節(1582年)はローマ教皇に謁見し、ヨーロッパに日本の存在を知らしめた。
  • 宣教師から西洋式の大砲「国崩し」を入手し、実戦で使用した。
  • 臼杵に石造りの教会を建設するなど、領内のキリスト教化を推進した。
  • 耳川の敗戦は、無理な南下策が原因とされ、家臣の諫言を聞かなかった結果とも。

歴史的議論

宗麟のキリスト教入信が、純粋な信仰心によるものか、南蛮貿易の利益を目的としたものかは議論がある。耳川の敗戦の原因についても、宗麟の戦略的判断ミスか、家臣団の内紛が主因かで見解が分かれる。

関連する城

大分府内城、臼杵城、岡城

最期

1587年5月23日、津久見にて病没。享年58。秀吉の九州征伐の直後であり、キリシタンとしての信仰を最後まで貫いた。

参戦した合戦

人物関係

主従

同盟

よくある質問

Q. 大友宗麟の出身はどこ?

大友宗麟は豊後(現在の大分県)の出身です。

Q. 大友宗麟の代表的な戦いは?

大友宗麟は耳川の戦い、九州征伐に参戦しています。

Q. 大友宗麟の異名は?

大友宗麟は「豊後の王」と呼ばれています。

Q. 大友宗麟の最期は?

1587年5月23日、津久見にて病没。享年58。秀吉の九州征伐の直後であり、キリシタンとしての信仰を最後まで貫いた。

Q. 大友宗麟の名言は?

「仏の教えとキリストの教えは、源は同じものである」(伝承)

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