前田利家の生涯
加賀百万石の礎を築いた武将。若い頃は「槍の又左」として信長の親衛隊「赤母衣衆」の筆頭を務めた。賤ヶ岳の戦いでは柴田軍から離脱。秀吉政権下では五大老の一人として重きをなした。
— 槍の又左 —
| 名前 | 前田利家 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 犬千代 |
| 異名 | 槍の又左 |
| 生年 | 1539年 |
| 没年 | 1599年 |
| 出身 | 尾張(愛知県) |
| 勢力 | 豊臣 |
| 役職 | 武将 |
加賀百万石の礎を築いた武将。若い頃は「槍の又左」として信長の親衛隊「赤母衣衆」の筆頭を務めた。賤ヶ岳の戦いでは柴田軍から離脱。秀吉政権下では五大老の一人として重きをなした。
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戦国図鑑アプリを見る尾張国荒子の土豪・前田利春の四男。14歳で信長に仕え、「槍の又左」の異名で知られる猛将であった。若い頃は傾奇者(かぶきもの)としても有名で、派手な振る舞いが目立った。
信長の怒りを買い一時出仕停止となるが、桶狭間の戦いなどの武功で復帰。柴田勝家の与力として北陸方面で活躍し、能登一国を拝領。
賤ヶ岳の戦いでは勝家方に属しつつも戦線離脱し、結果的に秀吉に恩を売った。以後、秀吉の信頼を得て加賀・越中を加増され、前田百万石の基礎を築く。五大老の一人として秀頼の後見役を務めたが、秀吉の死の翌年に病没。享年62。
若い頃は血気盛んな傾奇者だったが、年齢と共に思慮深い大名へと成長。質素倹約を旨としつつも、必要な場面では豪華さを演出する政治センスを持っていた。妻のまつ(芳春院)とは恋愛結婚で、二人の夫婦仲の良さは有名。
賤ヶ岳での撤退が故意だったのか、やむを得なかったのかは議論がある。利家は勝家への義理と秀吉との友情の板挟みで苦悩したとされるが、計算ずくの裏切りだったとする見方もある。
荒子城、七尾城(能登)、金沢城、尾山御坊
1599年閏3月3日、大坂の前田邸にて病没。享年62。死因は不明だが、晩年は体調が優れなかった。利家の死後、武断派による三成襲撃事件が起こり、関ヶ原への道が開かれた。
1570年4月
越前国・金ヶ崎
1577年9月
加賀国・手取川
1582年6月
尾張国・清洲城
1583年4月
近江国・賤ヶ岳
1590年
相模国・小田原城
前田利家は尾張(現在の愛知県)の出身です。
前田利家は金ヶ崎の退き口、手取川の戦い、清洲会議、賤ヶ岳の戦い、小田原征伐に参戦しています。
前田利家は「槍の又左」と呼ばれています。
1599年閏3月3日、大坂の前田邸にて病没。享年62。死因は不明だが、晩年は体調が優れなかった。利家の死後、武断派による三成襲撃事件が起こり、関ヶ原への道が開かれた。
「人に好かれるのも嫌われるのも紙一重」