服部半蔵の生涯
徳川十六神将の一人。伊賀忍者の頭領の家系だが、自身は槍の名手として武功を挙げた。「伊賀越え」では家康の警護を務めた。
— 鬼半蔵 —
| 名前 | 服部半蔵 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 正成 |
| 異名 | 鬼半蔵 |
| 生年 | 1542年 |
| 没年 | 1596年 |
| 出身 | 三河(愛知県) |
| 勢力 | 徳川 |
| 役職 | 武将 |
徳川十六神将の一人。伊賀忍者の頭領の家系だが、自身は槍の名手として武功を挙げた。「伊賀越え」では家康の警護を務めた。
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戦国図鑑アプリを見る三河国の出身。本名は服部正成。父の代から松平家(徳川家)に仕えた。16歳で初陣を果たし、以後徳川家の戦いに忍者衆を率いて参加。三方ヶ原の戦い、姉川の戦いなどで功績を挙げた。
最大の功績は「神君伊賀越え」(1582年)。本能寺の変の知らせを受けた家康が堺から三河へ脱出する際、半蔵が伊賀・甲賀の忍者を手配して護衛し、無事に家康を帰国させた。これが家康の天下取りの命運を左右したとも言える。
後に江戸城の西門の警護を任され、この門は「半蔵門」と呼ばれるようになった。1596年に死去。享年55。
忍者の頭領としてのイメージが強いが、実際は槍を得意とする武将の側面も大きい。主君・家康への忠誠心は篤く、伊賀越えでの献身は特筆すべきもの。「鬼半蔵」の異名を持つ一方、武田信玄の娘を妻にした家康の長男・信康の切腹を命じられた際、涙で刀が振るえなかったという人間味あふれる逸話も。
「服部半蔵」は代々の通称であり、忍者としてのイメージは二代目以降と混同されている部分が大きい。初代・正成は武士としての性格が強い。伊賀越えの詳細なルートについても諸説ある。
江戸城(半蔵門)、岡崎城
1596年11月4日、江戸にて病没。享年55。息子の正就は家臣団との不和から改易されている。
服部半蔵は三河(現在の愛知県)の出身です。
服部半蔵は三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦い、伊賀越えに参戦しています。
服部半蔵は「鬼半蔵」と呼ばれています。
1596年11月4日、江戸にて病没。享年55。息子の正就は家臣団との不和から改易されている。
「影は主あってこそ存在す」(伝承・創作の可能性大)