蒲生氏郷の生涯
織田信長の娘婿。文武両道の名将で、千利休七哲の筆頭。伊達政宗の抑えとして会津に移封され、現在に続く会津若松の基礎を築いた。
— 麒麟児 —
| 名前 | 蒲生氏郷 |
|---|---|
| 本名・幼名 | 賦秀 |
| 異名 | 麒麟児 |
| 生年 | 1556年 |
| 没年 | 1595年 |
| 出身 | 近江(滋賀県) |
| 勢力 | 豊臣 |
| 役職 | 大名 |
織田信長の娘婿。文武両道の名将で、千利休七哲の筆頭。伊達政宗の抑えとして会津に移封され、現在に続く会津若松の基礎を築いた。
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戦国図鑑アプリを見る近江国日野城主・蒲生賢秀の嫡男。幼名は鶴千代。13歳で信長の人質となるが、その聡明さを信長に見込まれ、信長の娘を娶る。以後、織田家臣として各地の戦いに参加し武功を挙げた。
本能寺の変後は秀吉に仕え、伊勢松坂城12万石を拝領。小田原征伐後に会津42万石(後に92万石)に加増され、奥州の要として伊達政宗の監視役を任された。
会津若松城の大改修を行い、城下町を整備。しかし1595年に京都で急死。わずか40歳の早すぎる死であった。
文武両道の万能型大名。武勇に優れるだけでなく、千利休の高弟(利休七哲の筆頭)としての茶道の腕前も一流。キリシタン大名でもあり、洗礼名は「レオン(獅子)」。信長、秀吉、家康の三人に高く評価されたオールラウンダー。
40歳の急死は、秀吉による毒殺説がささやかれている。氏郷の能力と人望は秀吉にとって脅威であり、排除する動機はあったとされるが、確たる証拠はない。病死(直腸がん説あり)とする見方が主流。
日野城、松坂城、鶴ヶ城(会津若松城)
1595年2月7日、京都の蒲生屋敷にて病没。享年40。死因は直腸がんとされるが、毒殺説も根強い。「もう10年生きていれば天下に手が届いた」とも評される。
蒲生氏郷は近江(現在の滋賀県)の出身です。
蒲生氏郷は小田原征伐、四国平定、九州征伐、九戸政実の乱に参戦しています。
蒲生氏郷は「麒麟児」と呼ばれています。
1595年2月7日、京都の蒲生屋敷にて病没。享年40。死因は直腸がんとされるが、毒殺説も根強い。「もう10年生きていれば天下に手が届いた」とも評される。
「限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風」(辞世の歌)